慈光寺開山

過去数度の火災や戦乱により、当山の歴史を証明する資料を失っておりますが、次のような縁起・由来が今に伝わっております。

当山は仁安3年(1168)に、もともとは天台宗として開山します。その後、時宗の二祖上人である真教上人の勧めにより、時宗に転宗しました。古くは甲州(山梨県)にあって、時期は不明ですがおそらく南北朝の争乱の頃(1470年頃か)、三戸南部氏の流れを汲む久慈氏によってこの地に移されたといわれています。

慈光寺開山

九戸の乱から江戸時代

しかし、天正19年(1591)の「九戸政実の乱」に巻き込まれ久慈氏は滅亡。その久慈氏の菩提寺であった慈光寺も堂宇が焼き払われ、その後も転々と所を替えて草庵を結び、法燈を守っていました。現在の洋野町大野蒲ノ口に寺屋敷と呼ばれる場所がありますが、そこも慈光寺の跡地の一つであったと伝えられています。

江戸時代になり八戸藩が創設されると、この大川目の地が久慈氏の支族である摂待氏の知行地となります。摂待氏は旧縁により慈光寺を保護し、久慈家先祖代々の菩提を弔う寺として、今の場所に再興します。これをきっかけに檀信徒も増え、江戸末期には南九戸郡一帯の大半の家々の菩提寺として隆昌を誇りました。

九戸の乱から江戸時代

存亡の危機をのりこえて

しかし、宝暦と安永年間(1751~1781)に二度の火災に遭い、また明治時代初頭の廃仏毀釈の法難が襲いかかり、廃寺となって無住(寺に住職がいなくなること)の十年間荒れるままにされ、檀家も離れ、ご本尊である仏像や仏具、山林や田畑といったすべてを失います。

明治十三年、当時の大川目村および山形村戸呂町の有志が力を結集し、『遠野市常福寺塔中廃寺のご本尊を奉請(招き入れること)し、明治十三年十月、ご本尊を遷座して、供養式をあげた。』と「九戸郡誌」に記載されています。

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